コミュニケーションとマウント
一般的な社歴を経て、1つの社内でコミュニケーションをとりながら出世する人もいるだろう。私はというと色々転職しながら、1年生を時に繰り返しながら働いている。
転職が当たり前になり、就寝雇用もなくなり、働き方改革だと世の中言われているが
新環境に馴染める性格や年代もあるだろう。
私も新環境で胃の痛い毎日を過ごしている。
まぁ現状に満足せず飛び出した良くも悪くも「自己責任」のせいなのだが、
年下や異性の上司には対応できる自信はあったが、娘のような年代に教わり、現代のスキルをフルに使いこなせない世代としては、正直しんどい。
かくゆう、陽気的な年下なら良いのだが、閉鎖的(なおかつ異性で大きな年の差)となるとハードルは高い。なにせ向こうもバリアをはり、マネージメントスキルもあまりない中で「おじさん部下」に教えるという事は必要性や会社としての業務という感覚はないのだろう。
私のすきなエッセイに、後輩や先にできる事でマウントをとる事はやめよう!
という記事があった。私も多くの職を経験し、指導する立場もあった。出来る事が偉いのではなく、それを育てること、プレイヤーからマネージャーになる事の必要性である。
「やってみよう、だれもがみんな初心者なんだから♪」という曲が今になって最近染みるようになってきてる。
そういえば、むかし講師のバイトをしていた時、教わるより教える大変さを感じたのを思い出す。1+1=2なのだが、なぜ2なのかを説明するのは容易ではない。
こんなセミナーを受けたことがあった。
私は女性差別ではないが、キャリアを掲げキャリアーウーマン的なマウントをとる女性が苦手ではある。そのセミナーで「40過ぎても決算書すら見れない人がいる、その人は転職市場で自分が他より劣っている自覚がない、日々バージョンアップをしていない」という節があった。
これにはひどく違和感を感じた。たしかに日々成長しようという気持ちは大切なのだが、職種も環境も違えば決算書など触れない人もいる。それが劣っているか、ほかの同世代から知識が足りないかというと、私は合意できない。
一端を切りとり、みんなができる事ができないから劣勢という考えは逆に時代遅れではないだろうか。ダイバーシティや多様化のなかで、同一知識の中の優劣に意味はあるのだろうか。
価値観は日々変わっていく。昔はゲームは悪者で、1日何時間にしなさい馬鹿にかるからなどと言われた時期もあった。今では問題発言になるが、それが汎用していた。
しかしeスポーツなどもしかり、pc使えなければ仕事にならない現代に機械に触れることはもはや必然である。
自分ができる事を共有し、相手と幅を広げることが重要ではないだろうか。
今できる自分にも、それを教えてくれた先輩がいるから出来るようになったのである。軍事マニアでは全くないのだが、山本五十六氏の「やってみせ、言って聞かせてやらせてみ、褒めてやらねば人は動かじ」を肝に銘じている。
これからの時代ますます、高齢の新入生、他国籍の新入生、様々な教わる人たちが増えていくだろう。
その時に、「なぜ出来ないんだ!」と思うのではなく「なぜ出来るように教えられかったんだろう」という自戒を持ちながらできるようになりたいと思う。